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2011.01/15 [Sat]
錯覚の日々

自発的な勉強って、自分を肯定できる1番簡単な方法かもしれません。
結果が出せるかどうかはともかく、毎日少しずつでも前進できていると時間を無駄にはしていないと思えるし、自分が成長できているようにも思える。
そして何より昨日まで出来なかったことが今日は出来るようになるととても充実した気分になれる。
なので毎日勉強するというのは結果だけでなくその過程にも意味を持たせてくれるのだと思う。

・・・・というのは錯覚なのかもしれません。
そして僕はその錯覚の世界にどっぷりと浸かって毎日をやり過ごしているわけです。
充実しているように錯覚しているだけ。
意味があるように錯覚しているだけ。
たまに映画やドラマを見て特別な経験を疑似体験して、あたかも自分の人生かのような錯覚をしているだけ・・・なのかもしれません。

でもそんなことを思いながらも、やっぱり今出来ることは今やっていることくらいしか無いので、今のままを続けて行くしかありません。
で、何が言いたいのか?
やっぱり何の変哲もない日々を過ごしているなぁ~としみじみ思うわけです。
No title
多分その理由は、対称の位置にある言語イメージではないだろうか。悔恨は現在の希望と結果。不安は現在の能力と予測不可能な境遇。占いはこれらをうまくつじつまを合わせている。論理を越える。しかし感覚でもってそれは詭弁と判断する。
ではどうすればいいのか?まず人間は相反する何かを共有する。アカデミズムとジャーナリズム。ストイシズムとエピュキリアン。これをまとめたり消尽するのは不可能なので、まずは行動することであり比較はしないことだろう。自分と違うものから影響を受けても、それはインスピレーションをもたらしたきっかけに過ぎず、「創造」への階梯にすぎない。
つまりは強欲と思われても、恥辱の塊と言われたとしても、芸術の世界への詭弁と解し、世間から誹謗を受ければ、誰も逃げる。
崖っぷちに立たされてどうするか?となった時点から、既にその人間は現実を振り返らず「結局は自分が判断せねばならない」という揺るがない結論がでる。